現役の東大教授(安冨歩氏)が明かす
平気で人を騙す「東大の先生たち、この気持ち悪い感じ」
権力の集まる場所にいる人は、だいたいこれを使っています。欺瞞的な言葉を使って、その場その場でごまかしながら、自分に都合のよい方向に周囲を動かしていこうとする。
その技術が高いほど、物事の処理も巧みになっていき、組織の中心的役割を担うようになります。つまり、東大を出たような人で、かつそういう方向に頭を回すことが得意な、自分の考えも信念も感情もない人ばかりが上に集まっていくということです。これは国民にとって大変な不幸です。
私が本の中で東大を散々にこき下ろしているので、東大関係者からは怒りの声も聞こえてきます。しかし、背中を押し、支えてくれた教員の方々がいたことも事実です。また、京都大学原子炉実験所の小出裕章助教には、激励のお言葉をいただきました。
私がこの本を出した目的は、東大の悪口を言うためではありません。原発事故によって露見した日本社会の真の様相を明らかにしなければ、この国は暴走してしまうと思ったからです。そうしなければ、私自身が生きる道を閉ざされてしまう気がしたのです。
いま、原発の再稼働だとか、ヨルダンに輸出だとかいったおかしなことが、もっともらしい東大話法で唱えられています。これを抑えられなければ、もう原発も東大話法支配も止めようがない。でも逆に、ここで「怖い」、「嫌だ」というような思いをストレートに言葉にできる人が増えれば、逆転は始まると思うのです。実際、その兆しも出始めています。
そういう人たちが政治家に選ばれて、大きな権限を持てるようになれば、国は変わる。いまがその最後のチャンスだと、私は思っています。
彼らに「君の意見はなんですか」と聞いたら、答えられないと思います。何でも受け入れられるけれど、自分というものはない。 学問というのは、いろいろなところに矛盾が隠されているものです。だから普通の人が勉強して矛盾に突き当たると、わからなくなる。それは当然なのです。 ところが、一部の人たちは矛盾など気にせずにスパッと割り切った上で、そこから先を無矛盾に構成する。この能力の高い人が「勉強ができる」人になり、「専門家」になるんです。この問題が端的に現れたのが原発事故後の対応でした。
「東大話法」の法則
安冨歩氏(49歳)は京都大学出身。経済学の研究員・助教授としてロンドン大や名古屋大を経て、現在は東大の東洋文化研究所で教授を務めている。 東大に身を置くようになって感じていた違和感の正体を、原発危機をきっかけに解明。その概念や法則を『原発危機と「東大話法」』(明石書店)という本にまとめ、話題になっている。 テレビに出て原発の安全性を熱心に語る学者は、ほとんど「東大話法」の話者でした。また、官僚もそうでした。政治家も使うけれど、官僚に比べるとずっと下手です。だから、うまくごまかそうとしても、ちょいちょいボロを出す。そもそも、政治家は選挙民相手に話すので、東大話法とは別の欺瞞言語体系を持っている気がしますが、原発事故後の対応をしていた枝野さんは例外でした。 私が発見した東大話法の法則を例としていくつか挙げましょう。
● 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
● どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々に話す。
● 常に傍観者の立場から話をする。
● わけのわからない見せかけの理屈を使って相手を煙に巻き、自分の主張を正当化する。
● 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
● 自分の都合のいいように相手の話を解釈する。
● 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
● スケープゴートを侮蔑することで聞き手を恫喝し、迎合的な態度をとらせる。
● 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を力いっぱい批判する。
これらを含め、全部で20個の法則を見つけました。
もし、誰かの話を聞いていて、この中の1項目でも当てはまる要素が登場したら、相手は東大話法の使い手の可能性が高い。あなたをうまくやりこめようと狙っているかもしれません。
東大話法の使い手は、教授や官僚や政治家だけではありません。財界にも言論界にもいます。例えば、元大王製紙会長の井川意高氏(東大法卒)もそうです。'07年の『財界』新年号のインタビューに、彼の東大話法がよく表れています。
その冒頭で、彼は「(製紙会社は)大きければいいという業界ではない」と言い、北越紀州製紙との提携も、技術上の相互援助だと説明します。規模を目指すのが目的ではないと言いたいわけですが、話の後半にブランドの話になると、「今後トップ3かトップ2しか生き残れない」と語り出す。最初に言ったことと矛盾しているのに、本人はそれに気付かず、滔々と持論を展開していくのです。
なぜそうなるかというと、話題ごとに自分にとって都合のいい結論を用意して、それにうまく当てはまる話を並べているだけだからです。話全体としては、なんとなく繋がっているようだけれど、実は前後で矛盾して一貫性がない。その一貫性のなさをカバーするために、随所に全く脈絡のない別の話を差し込んでくる。
信念も感情もない人たち
何度も言いますが、こうした東大話法の話者には、自分の信念とか、感覚とかがありません。というか、それを感じないようにしているので、いかなることでも理解できるし、いかなることでも発言できるのです。
だから彼らとの対話は、互いに心を通じ合わせ、新しいアイデアとか価値を生み出すものにはならない。彼らの話法は、相手を言いくるめ、自分に従わせるためのもの、要するに言葉を使った暴力だから、そもそも対話にならないのです。
「人体にただちに影響があるレベルではない」、「原子炉の健全性は保たれている」---原発事故後、名だたる学者や政府の役人などの口から、こんな信じられない発言が次々と飛び出しました。私はあれを見て、すごく不気味に感じた。たぶん多くの日本人が同じ感じを抱いたと思います。
彼らは態度もおかしかった。たとえば経産省の西山英彦審議官(当時=東大法卒)は、なぜか会見でニヤニヤしていました。あの役割は、常人では耐えられないほどの重圧です。まして彼は原子力安全・保安院に在籍経験を持つ責任者の一人。半笑いを浮かべながら話すなど、普通は絶対にできません。それができたのは、彼が自分を傍観者の立場に置いていたからです。
当時の枝野官房長官の会見も、気持ちの悪いものでした。口では「政府は国民の生活をまず第一に考えている」と言うけれど、感情が伝わってこない。何を言っても、ほとんど表情が変わらない。
また、東京大学医学部附属病院の中川恵一准教授は、事故後にインターネット記事でこう書いています。
「100mを超えると直線的にがん死亡リスクは上昇しますが、100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません。それでも、安全のため、100mSv以下でも、直線的にがんが増えると仮定しているのが今の考え方です。
仮に、現在の福島市のように、毎時1μの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100mSvに達するには11年以上の月日が必要です」
この文章には、東大話法特有の矛盾が生じています。最初に「100mSv以下でも、直線的にがんが増えると仮定」しておきながら、次の段落では「身体に影響が出始める100mSvに達するには11年以上の月日が必要」と、話を逆転させているからです。 なぜかというと、仮定のほうは「今の考え方」、つまり「線形閾値なし仮説」という放射線防護業界の標準的な考え方なので、正面切って批判するのは、彼の「立場」からするとまずいからです。そこで一応、「私は線形閾値なし仮説を認めています」と断ったうえで、今度はクルリと立場を変えて、いきなり11年間は安全という「線形閾値あり仮説」に飛び移っている。これは「自分の信念ではなく、立場に合わせた思考を採用する」東大話法で話をしているからです。 また、このケースは「どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々に話す」という法則にも該当しています。 東京大学大学院の大橋弘忠教授も、随所で東大話法を駆使しています。たとえば、'05年に佐賀県の古川康知事の主催で行われた「玄海原子力発電所3号機プルサーマル計画の『安全性』について」という討論会で、大橋氏はこう発言します。 「(プルトニウムは)なんにも怖いことはありません。・・・・・・テロリストが取っていって貯水池に投げ込んだと。そこから水道水が供給されていると。じゃあ何万人が死ぬかというと・・・・・・1人も死なないというふうに言われています」 「皆さんは原子炉で事故が起きたら大変だと思っているかもしれませんけど、専門家になればなるほど、そんな格納容器が壊れるなんて思えない」 「私は水蒸気爆発の専門家です。・・・・・・我々専門家の間ではそんなこと(水蒸気爆発)は夢にも考えられていない」 いずれも欺瞞だらけの発言です。科学的な背景を詳しく説明していく余裕はありませんが、大橋氏は「自分の立場に合わせた思考」に固執し、「都合の悪いことは無視」し、科学的にみて明らかに「つじつまの合わないことでも自信満々に話」しています。 この討論会は、九州電力が動員した聴衆が半数近くを占めるヤラセでした。東大話法の飛びかう矛盾だらけの討論会だったにもかかわらず、終了後のアンケートでは、原発の安全性に肯定的な意見が約65%もありました。
「君のため」「国民のため」
肉体の暴力は、暴力をふるう人の動ける範囲に限定されるけれど、言語による暴力は、メディアで、すさまじい範囲に広まります。その破壊力は、人類を滅ぼすことも十分可能なわけです。実際、そういうものによってナチスや、日本の軍国主義が生まれました。 しかも巧妙なのは、東大話法が基本的に自分の攻撃を隠蔽するために使われるということです。彼らの言う「君のため」「国民のため」は、前後の文脈の中に、ほぼ確実に攻撃的な意図が込められています。 権力の集まる場所にいる人は、だいたいこれを使っています。欺瞞的な言葉を使って、その場その場でごまかしながら、自分に都合のよい方向に周囲を動かしていこうとする。
その技術が高いほど、物事の処理も巧みになっていき、組織の中心的役割を担うようになります。つまり、東大を出たような人で、かつそういう方向に頭を回すことが得意な、自分の考えも信念も感情もない人ばかりが上に集まっていくということです。これは国民にとって大変な不幸です。
私が本の中で東大を散々にこき下ろしているので、東大関係者からは怒りの声も聞こえてきます。しかし、背中を押し、支えてくれた教員の方々がいたことも事実です。また、京都大学原子炉実験所の小出裕章助教には、激励のお言葉をいただきました。
私がこの本を出した目的は、東大の悪口を言うためではありません。原発事故によって露見した日本社会の真の様相を明らかにしなければ、この国は暴走してしまうと思ったからです。そうしなければ、私自身が生きる道を閉ざされてしまう気がしたのです。
いま、原発の再稼働だとか、ヨルダンに輸出だとかいったおかしなことが、もっともらしい東大話法で唱えられています。これを抑えられなければ、もう原発も東大話法支配も止めようがない。でも逆に、ここで「怖い」、「嫌だ」というような思いをストレートに言葉にできる人が増えれば、逆転は始まると思うのです。実際、その兆しも出始めています。
そういう人たちが政治家に選ばれて、大きな権限を持てるようになれば、国は変わる。いまがその最後のチャンスだと、私は思っています。
「週刊現代」2012年4月7日号より
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